主要なそばのメニューを考察してみる
ぼくは冷たいそばしか食べません。東京にいた時分は、ほとんどもりそばとざるそばしか食べませんでした。地元に帰ってもほとんど注文するのはざるそばだけです。ただ、ぼくの地元である山陰地方では、『割子そば』という独自のスタイルがあって、ときたまそれを注文することがあります。しかし割子そばにしたって、当然に冷たいそばなのです。割子そばとはなんぞや? というかたには、ぜひとも出雲そばについて調べていただきたいと存じます。
しかしながら、いろいろの具材が盛り付けられる、そばのメニューもあります。
ただその多くは、主に温かいそばで提供されるメニューなので、ぼく的にはその魅力を知りがたいのですが……。
きつねそば
「きつね」に関しては、説明はいらないでしょう。油揚げがキツネの好物とされるので、きつねそば、きつねうどん、と言われるようです。
ぼくはきつねうどんなら好きです。
たぬきそば
天かすがメインという涙ぐましいそばです。冷やしたぬきそばも根強い人気がありますが、個人的には食感があまり好きではありません。
天ぷらそば/天ざるそば
海老天を載せるのがポピュラーだと思われます。温かい天ぷらそばは、海老天がふやけてしまうので、嫌いです。
また天ざるそばというのがあります。ぼくのソウルフードたる地元のそば屋では、天ざるそばの天ぷらがイカの天ぷらのみであり、ざるそばの横に豪快にイカ天が載っており、ワンプレートで提供されます。このスタイルの天ざるそばしか食べる気がしません。
月見そば
最初に黄身を崩すのがご法度とされるそばです。
とろろそば(山かけそば)
山芋の風味があまり好きではないので、ぼくは食べませんが、根強い信奉者がいます。
鴨南蛮/鶏南蛮/カレー南蛮
温かいのは食べませんが、だし汁がおツユ代わりになった「鴨せいろ」「鶏せいろ」なら時々食べていました。過去形なのは、地元の山陰地方ではこの系統のメニューをほとんど見かけないからです。
カレー南蛮は、生まれてから一度も食べたことがありません。
× × ×
コロッケそば
温かい、かけそば系統のメニューがそんなに好かないのなら、いっそ、コロッケそばのような変わり種を攻めてみるのも面白いかもしれない。
ただ、ぼくの地元には、立ち食いそばのチェーン店がないのです…。
『得するテレビ』~『にっぽん菜発見』のテレ朝系日曜9:30枠(ABC発)
現在、スーパー戦隊シリーズ(『騎士竜戦隊リュウソウジャー』)が編成されている、テレビ朝日系列の日曜9時30分~10:00分枠ですが、ぼくが子供の頃はとうぜん戦隊シリーズなんてやっていなかったし、あまり日曜朝の地上波テレビでは馴染みのある枠ではありませんでした。
ぼくの地元でテレ朝系列局が視聴できるようになったのは1999年の暮れからだったと思うのですが、当時この日曜9:30~10:00枠は、テレビ朝日ではなく、朝日放送(現・ABCテレビ)の管轄だったようです。
1999年10月にこの枠で『得するテレビ』という番組が始まっています。
日常生活に役立つ様々な情報を紹介していた番組で、その回の特集内容について紹介するVTRパートと、渡辺正行と島崎和歌子がスタジオでそれらを実践・検証するパートによって構成されていた。
とウィキペディア記事には書かれていますが、そこそこテレビっ子だったにもかかわらず、まったくこんな番組が存在することを知りませんでした。
後番組の『新★得するテレビ ホンジャマカな日曜日』からこの枠はホンジャマカ枠になります。『新★得するテレビ』自体は1年で終わるのですが、引き続きホンジャマカはこの枠に出演し続けるのです。
にっぽん菜発見 そうだ、自然に帰ろう - Wikipedia
『にっぽん菜発見 そうだ、自然に帰ろう』、この番組もやはりABCの制作番組で、これより前の番組とはコンセプトが一新しています。
毎週日本各地の村々を訪ね、その土地の農産物などの名産品を紹介、現地の人々との交流や触れ合いが放送された。
ホンジャマカのふたりは役割が分かれており、石塚英彦が旅人役、恵俊彰はナレーションを担当していました。ほかにも旅人役で、東ちづるや東貴博が出ていました。
けれどもやはり僕は、この番組の存在をまったく知りませんでした。
しかしながら『にっぽん菜発見』は、2003年秋から2010年春まで6年半も続いた、なかなかの長寿番組でした。
山口大学の前身である教育機関のWikipediaを読む(第3回)
第1回では旧制山口高等学校、第2回では山口高等商業学校について、Wikipedia の記事を読んできました。
約7ヶ月ぶりの更新となる第3回は、山口大学工学部の前身であった、
のWikipediaを見ていきたいと思います。
宇部高等工業学校(のちに宇部工業専門学校)
宇部工業専門学校は、1939年「宇部高等工業学校」として創立し、1951年廃止されました。廃止の日付は3月31日なので、実質1950年度をもって廃止であり、12年間しか存在しなかったことになります。
それでは、Wikipediaの「沿革」を見ていきましょう。
日本が太平洋戦争に向かっていく最中のことでした。時の文部省は、全国に高等工業学校を増やすことを計画しました。高等工業学校とは、旧制専門学校の一種です。高等教育機関のカテゴリーに入り、現在の大学工学部・理工学部の母体となっています。
さて、なぜ文部省は、高等工業学校の増設を急いでいたのでしょうか。宇部工業専門学校のWikipediaには、「戦時体制下の技術者拡充を図るため(「概要」より)」と記述されています。来るべき戦争を見越して、軍事関連技術者を養成したかったのでしょう。
山口県は、高等工業学校を山口市に作りたかったようですが、「学校を作る費用がかかりすぎる」と山口市は辞退し、変わって宇部市が名乗りをあげました。鉱工業ブームで、宇部市は潤っていたのです。宇部市は学校建設用地とお金を寄付。山口県もお金を寄付。山口県の地元企業もお金を寄付して、企業の寄付金が一番多かったそうです。
こうして、1939年、「宇部高等工業学校」は設置されました。1年生時は全寮制で、1期生が入寮したのは、その年の夏――7月でした。第1回の卒業式は真珠湾攻撃の直後で、 終戦まで繰り上げ卒業の措置が取られました。
なお、学校名は、1944年「宇部工業専門学校」に変わっています。
興味深い記述がありまして、終戦の年・1945年の12月、軍国主義教官の排斥をもとめ、学生がストライキを起こしたというのです。各地でそういうことがあったのかもしれません。
1949年に新制・山口大学が発足し、同時に宇部工業専門学校は山口大学工学部の母体になりました。今も、山口大学工学部は宇部市にキャンパスがあります。なお、工学部キャンパスの地名は『常盤台』という名前で、工業専門学校・工学部共通の同窓会の名前は『常盤工業会』と言うそうです。
Wikipediaでは、関連書籍として、創立五十周年記念事業として1990年に出版された『山口大学工学部五十年』という本が記されています。1939年の宇部高等工業学校設立からカウントして『五十年』ということでしょう。
山口大学の前身である教育機関のWikipediaを読む(第2回)
山口高等商業学校(のちに山口経済専門学校)
山口高等商業学校(山口高商)の特徴は、官立高商で唯一旧制高校を前身としていることだそうです。官立高商というのは、「戦前に国が作った高等商業学校」という認識でイケると思います。旧植民地以外の官立高商は、現在の日本の国立大学における経済学部・経営学部の前身となっています。「高等商業学校」という名称なのでややこしいのですが、現在の商業高校より格上です。というのも、現在の商業高校が、後期の中等教育機関であるのに対して、「高等商業学校」は、高等教育機関の範疇であるからです。
で、山口高商の前身となった旧制高校は、前回お話した『(旧制)山口高等学校』なんですが、ややこしいのは、山口高商ができた14年後に、新たなる『(旧制)山口高等学校』が復活したことです。つまり、旧制山口高校が復活したあと、戦後に『新制山形大学』ができるまで、復活の山口高校と、今回のお題である山口高商が、並行して存在していたのです。
ちなみに、復活後の(旧制)山口高校は、いまの山口大学の人文学部・理学部の前身であり、山口高商は、いまの山口大学の経済学部の前身であります。
山陰地方の公立進学校で育った僕の目からすると、山口県の大学について本気で調べるまで、山口大学は、広島大学・岡山大学に劣る!(キリッ)みたいなイメージでしたが、これは致命的な誤解であって、偏差値的な格差や『駅弁大学』というレッテルを無視してしまえば、学部のバリエーションからして、山口大学は立派な『総合大学』であり、中国地方と九州地方の両方と深い交渉をもつ山口県にあるという立地を考えても、非常に興味の尽きない国立の総合大学であると、今では考え直しています。
さて、山口高商で、どんな人間が教えていたのかというと、Wikipediaによれば、京都帝国大学や、東京高等商業学校(東京高商)出身者が教員には多かったようです。東京高商は、現在の一橋大学です。
やがて、東京高商は東京商科大学に格上げ、そして西日本の神戸高等商業学校(神戸高商)が神戸商業大学に格上げし、東京商科大学と並び立つようになると、神戸商大の出身者も、教壇に立つことが多くなります。神戸商大、現在の神戸大学における多くの文系学部の前身であります。
京都帝大・神戸商大。憶測にすぎませんが、山口県が中国地方の最西端で九州地方に(関門海峡を隔てて)接していたので、西日本の有力大学の出身者が、山口高商の教員のなかで一大勢力を築いていたのかなあ? と思いましたが、「一大勢力」というのは言い過ぎだったかもわかりません。
第二外国語の設定が特徴的だなあと思いまして、なぜかというと、中国語か韓国語のどちらかを選択履修することが義務付けられていたようで、「滿韓地方ノ實業ニ從事」する人材ーー当時大日本帝国は満州地方や韓国に勢力を伸ばしていましたからーーを育てるという意図が背後にあったのでしょう。
第一次世界大戦開始後、日本の近隣アジア諸国への経済進出が本格化すると、高商各校ではこれらの地域での貿易実務者の養成に力を入れた
(Wikipedia「山口高等商業学校」 閲覧20180827)
この動き、山口高商も例外ではありませんでした。
あと面白いと思ったのは、山口高商は『山口商學雑誌』『東亞經濟研究』という2つの機関紙を出していたそうで、これは山口大学が発足した後も、そして現在も発行され続けている雑誌だそうです。『山口商學雑誌』は『山口経済学雑誌』に誌名変更して存続、『東亞經濟研究』はどうなっているんだろうと思ったら、『東亞経濟研究』と『經』の字だけ新字体になって2017年1月発行分まで山口大学ホームページ内の「学術機関リポジトリ」で閲覧可能。すげえ。
Yamaguchi University Navigator for Open access Collection and Archives
<つづく>
山口大学の前身である教育機関のWikipediaを読む(第1回)
旧制山口高等学校
まず、「全国で3番目の高等中学校だった」という記述に驚きます。高等中学校とは、のちの旧制高校です。その時点で設立されていた高等中学校は、第一高等中学校(一高)と第三高等中学校(三高)だけであって、この両者は東京と大阪(すぐに京都に移転)という東西の大都市の学校だったのです。なぜその次の高等中学校に山口がくるのか。
なんのことはない。明治維新の過程を考えてみればいいのです。明治維新の中心を担ったのは、長州藩と薩摩藩です。翌年に鹿児島県に『鹿児島高等中学造士館』という高等中学校ができます。7つ設置された高等中学校のなかで、『第◯高等中学校(◯のなかには数字が入る)』シリーズでなかったのは、この『造士館』と山口高等中学校だけです。
設立の背景には地元出身者・子弟を高等中学校から帝国大学へ進学させることにより官界・政界へ人材を送り影響力を保持しようとした藩閥勢力の意向があった
(Wikipedia「山口高等学校(旧制)」2018年8月22日閲覧、強調と赤字は引用者による)
山口県はとうぜんかつての長州藩です。たぶん鹿児島の『造士館』もほとんど同じような背景で設立されたのでしょう。鹿児島県はかつての薩摩藩ですから。
薩長土肥とはいっても、新政府を牛耳っていたのは薩長(薩摩と長州)の二大勢力でした。薩長出身者が政治の実権を握っていたので、地元の鹿児島(薩摩)・山口(長州)に高等中学校を置いた思惑も理解できます。
第七高等学校造士館 (旧制)とともに旧藩の肝いりで創立された国立学校である。
(同じページからの引用)
ちなみに、山口高等中学校は、中国地方に置かれた唯一の高等中学校でした。岡山県に第六高等学校ができる14年前に、すでに山口県には高等教育機関が存在していたのです。
当初は「学生のほとんどは地元の山口県出身者によって占められた」旧制山口高等学校はしかし、1905年にいったん『山口高等商業学校』に変わります。山口県に旧制高校が復活するのは、大正時代になってからでした。
1919年に新たなる『山口高等学校』が開かれます。改正された高等学校令の恩恵をこうむる形になったのです。かつての山口高等学校と同じく、地元・山口県からの入学者が多かったようです。
で、戦後に学制改革が行われ、新制山口大学の文理学部の母体となりました。そして山口大学文理学部は、1978年に人文学部と理学部に分かれました。
ちなみに大正時代に復活したほうの『山口高等学校』の同窓会は、『鴻南会(こうなんかい)』というそうです。
ちなみにちなみに現在の『県立山口高等学校』は、復活したほうの旧制山口高等学校の校地を利用しているようです。うらやましい。
わかさ(スタジアム)! わかさ(スタジアム)って何だ!?
猛暑で異例のナイター開催、京都 高校野球、午後の試合繰り下げ - 共同通信
夏の甲子園の京都府予選でナイターで試合が行われたことが話題になっていますが、↑のニュース記事によると、ナイターゲームを行ったのは『わかさスタジアム京都』という球場だそうです。
さて、『わかさスタジアム京都』なる球場の正体は、なんなのでしょうか?
正体は、京都市西京極総合運動公園野球場(;^ω^)
つまり、昨今はやりの「ネーミングライツ」だったのですね。
この球場は、昭和7年開場の由緒正しい球場であります。
- 両翼:100m、中堅:117m
- 収容人数 内野スタンド:13,300人 外野スタンド:6,700人 計20,000人
ちなみにナイター設備が施されたのは1965年だそうです。
わかさ生活は野沢雅子さんの演じるキャラクターが出てくるCMで有名ですが、本社は実は京都市なのでした。
そういえば、『クロスゲーム』というアニメ(原作:あだち充)のスポンサーが、わかさ生活でした。野沢雅子さんも、『クロスゲーム』に出演していたと思います。
Cook Do 青椒肉絲 作りたい 2人前なら ギリギリセーフ
ごはんのおかずを作るときに便利な「合わせ調味料」のひとつが味の素の『Cook Do(クックドゥ)』ですが、スーパーでよく見かけるのは3~4人前で、例えばひとり暮らしでこの3~4人前を作るのはツラいものがあります。
ググってみると、ありましたよ、少なめのCook Do。
↑の公式ページの下のほうに、2人前シリーズが紹介されています。
ただ、2人前のCook Doなんて、スーパーに置いてあったかなあ。
2人前は2人前ですから、「ひとり」暮らしのお料理の枠からはみ出ている。
つまり、大飯喰らい()のぼくには問題ないのですが、1人前でなく2人前であるという事実には変わりないですから、やはりひとり暮らしのお料理には向いていないのかもしれません。
でも、2人前バージョン、売ってたら便利だな、やっぱり。
2人前バージョンは3~4人前バージョンよりメニューのバリエーションが少ないです。
逆に、Cook Doを代表するラインナップが厳選されているとも言えます。
2人前バージョンの品目は、
この中の料理では個人的に青椒肉絲(チンジャオロウスー)が一番好きなので、「青椒肉絲」でググってみると、2番目にウィキペディアの記事が。
いきなり、
発祥の中国においては豚肉を使用するのが標準であり、牛肉を使用した場合「青椒牛肉絲(チンジャオニウロウスー)」、もしくは短縮して「青椒牛肉」、「青椒牛」などと表記する。
(20180723閲覧)
と書かれていて、出鼻をくじかれた感じ。
ちなみに子供のころよく行っていた中華料理屋で特に好きなメニューだった青椒肉絲は、牛肉で作っていたような気もしないでもないです……。
ちなみにちなみに、青椒肉絲でいちばん重要な具材は、タケノコだと思います。