山口大学の前身である教育機関のWikipediaを読む(第1回)

旧制山口高等学校

山口高等学校 (旧制) - Wikipedia

 

まず、「全国で3番目の高等中学校だった」という記述に驚きます。高等中学校とは、のちの旧制高校です。その時点で設立されていた高等中学校は、第一高等中学校(一高)と第三高等中学校(三高)だけであって、この両者は東京と大阪(すぐに京都に移転)という東西の大都市の学校だったのです。なぜその次の高等中学校に山口がくるのか。

 

なんのことはない。明治維新の過程を考えてみればいいのです。明治維新の中心を担ったのは、長州藩薩摩藩です。翌年に鹿児島県に『鹿児島高等中学造士館』という高等中学校ができます。7つ設置された高等中学校のなかで、『第◯高等中学校(◯のなかには数字が入る)』シリーズでなかったのは、この『造士館』と山口高等中学校だけです。

 

設立の背景には地元出身者・子弟を高等中学校から帝国大学へ進学させることにより官界・政界へ人材を送り影響力を保持しようとした藩閥勢力の意向があった

Wikipedia「山口高等学校(旧制)」2018年8月22日閲覧、強調と赤字は引用者による)

 

山口県はとうぜんかつての長州藩です。たぶん鹿児島の『造士館』もほとんど同じような背景で設立されたのでしょう。鹿児島県はかつての薩摩藩ですから。

薩長土肥とはいっても、新政府を牛耳っていたのは薩長(薩摩と長州)の二大勢力でした。薩長出身者が政治の実権を握っていたので、地元の鹿児島(薩摩)・山口(長州)に高等中学校を置いた思惑も理解できます。

 

第七高等学校造士館 (旧制)とともに旧藩の肝いりで創立された国立学校である。

(同じページからの引用)

 

ちなみに、山口高等中学校は、中国地方に置かれた唯一の高等中学校でした。岡山県に第六高等学校ができる14年前に、すでに山口県には高等教育機関が存在していたのです。

 

当初は「学生のほとんどは地元の山口県出身者によって占められた」旧制山口高等学校はしかし、1905年にいったん『山口高等商業学校』に変わります。山口県旧制高校が復活するのは、大正時代になってからでした。

 

1919年に新たなる『山口高等学校』が開かれます。改正された高等学校令の恩恵をこうむる形になったのです。かつての山口高等学校と同じく、地元・山口県からの入学者が多かったようです。

 

で、戦後に学制改革が行われ、新制山口大学文理学部の母体となりました。そして山口大学文理学部は、1978年に人文学部と理学部に分かれました。

 

ちなみに大正時代に復活したほうの『山口高等学校』の同窓会は、『鴻南会(こうなんかい)』というそうです。

 

ちなみにちなみに現在の『県立山口高等学校』は、復活したほうの旧制山口高等学校の校地を利用しているようです。うらやましい。